気がつけば、今日は8日。
先月は、またママの月命日を忘れた。
元来が、誕生日すら祝う習慣がなくて、自分の誕生日すらろくに思い出さないような性格だ。月命日を忘れても故あるかな。
だめなんだろうな。
わかってるんだけど、なんというのか、既にママが亡くなったということは事実の一つ。人生の1ページ。過ぎ去ったこととは言わないけれど、それがことさらにどうと言うことでもなくなくなってしまった。
子供らも、似たようなものだ
心の中には、ママがいる。
現実の世界から心の中へ舞台を移したって感じかなぁ・・・
だからかわからんけど、ことさらに月命日だって、だからどうということがない。
最初からない。
たぶん、僕が月命日だって、だからとくに何かしてたら、あるいはそういいながら線香をあげてたりすれば、子供らにとってもそういうものになるんだろう。
僕がそうしないから、そういうことになっていかないんだろう。
生徒に結婚しているのかって聞かれたので、一瞬言葉に詰まった。
「してるよ」
と答えながら、でも今奥さんいないよなって思い返し、
「こないだ死んじゃったけどね」
すると、
「あ・・・すいません」
と、生徒は目をそらす。
「別に良いよ。それが事実だし」
僕の答えは、いつもこれなんだよな。
”事実”
この前にあっては、すべては特別な感情から切り離される。
おそらく、これだけ目に入れても痛くない扱いのゆめでさえ、死後は同じになる。
これはもう、予感を通り越して確信を持って言える。
なんなんだろう。
冷たい人だから?なのかな。
あるいは、自分の精神の均衡を保つための手段かも知れない。
そうとでも思い込んで処理してなかったら耐えられないのかも。
帰り道、教会の前を通ったら、庭に置かれているマリア様の像の前にたたずむ女性がいた。
両手を胸に当て、じっとマリア様の顔を見上げていた。
車で通りすぎる一瞬見ただけだけど、強烈な印象を伴った。
きっと、ただの石の像でも、日頃から一心に思いを伝えていたら、その祈りは像を通ってどこかに届くのだろう。祈りの道ができるみたいな感じで。
そうなったらその像はもうただの像ではなくて、魂のこもった像といえるのかも知れん。
毎日一心にママの冥福を祈るのが上等なのかも知れん。
ママへこの思いが届くしっかりとした道筋ができあがるその日まで。
同時に、常にママの心と共にあるなら、儀式としての祈りに意味を見いだせない。
わかんないんだよな。
わかんない。
いいかどうか、わかんない。
答えを見いだせないまま、日常に埋没していく。
そうして、ただ月日は流れてしまい、また、月命日を忘れる。