なんの話の流れでそうなったか忘れたが、ごはん中にたったと話してて
「ゆめちゃんみたいに病気持ってるとかわいそうなの?」
と・・・
「お前は、かわいそうって思うか?」
「う~ん・・・」
「お前も障害持ってるけど、かわいそうなのか?」
「う~ん・・・」
「俺はゆめがかわいそうな子だって思ったこと無いし、お前のこともかわいそうな奴って思ったこと無いけど」
「じゃぁ、いいや」
たったの「う~ん・・・」には、いろいろな意味が込められてるんだろう。
こんな話はママが生きてた頃から、ママの病気のことも含めてさんざんしてきた。
僕の答えが何かなんて、あいつは知ってる。
でも、他の人たちがそう思うように、たったも、ゆめは寝たっきりだし、自分で鼻の頭をかくことも出来ないし、ご飯も一緒に食べられないし、そういうことについて素直にかわいそうだと思う気持ちもなくはないんだろう。
でもそれは、状況についてだけのこと。
状況がそうだからって、ゆめ本人がかわいそうな子だということではない。
障害者がかわいそうだと思うのは、その後ろに「私は違って良かった」、そういう気持ちが入ってないだろうか。
かわいそうかどうかは本人に聞かなきゃ分からないのに、自分と比べてああだからこうだからと状況だけを見て、そう思ってないか。
かわいそうだと言う暇があるなら、手を貸してやればいい。かわいそうだって言ってる間に、何か手伝えないかと聞いてやればいい。
たとえ手が一本なくても、足が動かなくても、かわいそうかどうかなんて本人にしかわからない事。
ゆめは自分で自分の事を、かわいそうだなんて思ってないさ。
だから、他人にかわいそうだって思ってもらう必要もない。
ただ、不便だ。
状況を見れば、それは明らか。
本人だって、そこは否定しないだろう。
だったら、手を貸してくれ。
そういうことだ。
「だからさ、お前はそういう人のために何か出来ることがないか、真っ先にそれを考えるようにしなよ。それいいじゃん?」
かわいそうだからとか、そんな冠言葉はいらねーよ。
健常同士だって、助け合うじゃないか。
障害持ってたら、もっと手助けが必要だってだけで、そこが得られるなら普通に生きられるぜ。
手を貸すことに勇気が要るなら、助けてもらうこと、助けてって言うことにだって勇気がいるんだ。
かわいそうと思う心が優しだなんて勘違いしてるなら、そんなの捨てて、黙って・・・いや、黙ってこられると怖いから、声をかける勇気を持ちな。
「わかった」
分かるだけなら誰にでも出来るしな。
実際行動に移せるかどうかが大切な点なんだよー