前記事『やっちまった』に、温かいメールをありがとうございました。
僕は純粋に、失敗してしまったという事実を書いたのですが、皆さんそろってたったをほめていただき、驚きました。
言われてみれば、僕の失敗よりもたったのフォローの方が遙かにすごいことで、そこに思い至れなかった事が恥ずかしいです。
皆さんのおかげで、気づくことができました。
ありがとうございます。
先日、たったに一つ約束をしました。
それは、しかる必要のない場面でしかりつけたら、素直に反省しますということです。
以前、『怒鳴らない』ことを目標に掲げました。
それは叱らないって事ではなくて、必要以上に自分に怒りの燃料投下をすることなく、叱るべき処だけ叱って、あとは平静を保つという意味です。
これ以前は、なんだか非常にいらいらして、必要以上、また、関係ないことまで引き合いに出して、しかり続けることがままありました。
その反省です。
ところが、この目標を掲げてから、以前よりももっといらいらする場面が増えて、自分を抑えるのが大変になってます。
ああこれは、試されてるなぁって、いつも感じながらいます。
今のところ、目標を崩してはいませんが、一回の叱るエネルギーが増幅してることも実感してます。
おまけに、あそこは叱らなくてもよかったよなって、後で後悔することも多くなってきました。
そこで、しかりつける前に叱る必要がある場面かどうかを一時吟味することにしました。
試されてるのがわかってて、なお、負けるのはいやなので。
人生は、思い重荷を背負って長い道のりを行くようなもの
そういう考えは、金輪際捨ててます。
人生は、楽しく幸せに満ちたものです。
たとえどんな状況にあっていても、必ず幸せはある。
それを見つけられるかどうかの問題。
はなから自分で、人生は辛いものなんて決める必要はなし。
辛いことや苦しいことから、価値あることを見つけるって事は、事実としてあるけれど、辛いことや苦しいことを、辛い・苦しいことだと認める必要もなかろうと。
僕のクイリングは非常に細かく、生徒に言わせると『まるで修行』らしいです。
めんどくさくてやってらんねーレベルだそう。
でも、僕にはそれは、楽しい作業。
むしろ、細かくてめんどくさいほど楽しいのです。
だから、全然修行じゃない。
むしろ、喜んでやってます。
好きなものはそうでしょうが、たったを叱る前に自分にブレーキかけることも、そのことの中に喜びとかを見いだせれば、別に苦労でもなんでもないんだろうと思う。
それが自然にできるようになるまでは一時大変かもしれないけど、きっとすぐに慣れる。
少なくとも、掃除や洗濯にはそういう類のものを見いだしました。
どっちも、めちゃくちゃ楽しいです。
今は、新しい洗濯方法の実験をしてます。
同じやるなら、楽しい方が良いに決まってる。
同じやるなら、楽な方が良いに決まってる。
だから、自分がやろうとしてることの中に、楽しみを見いだそうと。
まるで、砂金探しみたいですね。
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