差別

障害か 障がいか 表記を巡り揺れる九州・山口/「負のイメージ助長」「気にならない」
真日JP 2012年04月15日


僕はチャレンジドに賛成してない派なんだよね。
障害者を障害者と表記して何ら恥じ入りもしないし、これからも使ってきて今後も使う。
これを、ひらがな表記になんて金輪際しない。
障碍なんて漢字も使わない。

ゆめは、立派な障害者だ。
人がそれをさしてしょうがい者でも障がい者でも障碍者でもチャレンジドでも勝手に呼称してくれてかまわないけど、僕は障害者以外は使わないな。






あるがままで良い。
ゆめは、別に自分の人生にチャレンジなんかしてないし、僕もさせるつもりはない。

『神様からチャレンジという使命を与えられた人、試練に挑戦する使命を与えられた人という意味である。すべての人間は、生まれながらに自分の課題に向き合う力が与えられている。しかも、その課題が大きければ大きいほど、向き合う力もたくさん与えられている、という考え方に基づいて作られた新語である。障害をマイナスとして捉えるのではなく、障害をもつ故に体験するさまざまな事象を自分自身のため、あるいは社会のためにポジティブに生かしていこうという意味合いである。』

とあるけどさぁ・・・だったら人間みんなチャレンジドじゃん。

ママも立派な障害者だったけど、何かにチャレンジして、それを何かに役立てたの?
ママに、そうする意志はあった?
ママの周りの人間も含めて、持ってた障害をマイナスとかそんな意味合いにとらえていただろうか。

ゆめも、障害を持っているが故に体験する事象を社会や自分自身にポジティブに生かせないよ。
生きているだけで精一杯だよ。
きっとゆめみたいな子の場合は、そうさせるのは周囲の役割なんだろう。
だったらやっぱり、チャレンジドはむしろ僕の方だったりもするんじゃない?
筋ジスの子と口唇口蓋列の子とママの死とちっさなこどもの子育てしながら仕事するのと、どんだけの課題だ?
ちゃんとチャレンジしてるだろ?
でもだれも、僕をチャレンジドとは呼ばんぞ。
むしろ、そうすることが当然とでも言わんばかりさ
チャレンジなんかじゃ、ないさ。
体に障害を持ってるかどうかなんて関係ない。
人は皆、その意味においてチャレンジドだ。
でも、それら人は皆、チャレンジドとは呼ばない。
だったら世の中に、チャレンジなんかいない。





言葉は美しいな。
チャレンジする使命か、美しいよ、ほんと。
でも、そんなものは要らないよ。

ゆめは、僕が土日に会いに来てくれることを心待ちにしてるんだぜ?
おうちにも帰れない状態で、せめて僕が会いに来てくれるのをひたすらに待ってるんだ。
いったいなににチャレンジしてるの?
あんな体も動かせない、自分の意志の表出にさえ困窮してる小さい子に、なにをチャレンジさせようっての?
もしそれ自体がチャレンジだって言うなら、なんと残酷なチャレンジだこと。



ゆめは、あるがままで良い。
それ以上、なにもさせたくない。
生きてて欲しい。
少しでも寂しい時間が減ってくれればいい。
一日のうちで一回でも良い、ゆめが言わんとすることがすんなり通る瞬間があればいい。

むしろ、明日会いに行くことができるか、明後日いけるか、僕が自分へのチャレンジだろ。


もうやめたいよぉ。
そんな特別な言葉を当てはめるの。
素直に認めてるよ、助けてもらえんかったら生きていかれないのよ。
だから、健常者と区別する必要があるの。
なにもかも平等だ一緒だ、差別するなって言うなら、必要な助けもないってことじゃないの。
弱者じゃん、実際、ゆめも、いっそゆめを助けてもらう立場の僕も。
僕は弱者上等だよ。
そんな呼び方なんかどうでも良いから、そのゆめを助けてくれてる施設職員の手当を厚くする方へ熱意を傾けてくれんか?
やたらにある医療的ケアのハードルを、一個でも取り去ってはくれんのか?
当たり前に必要なことは当たり前に実施して当たり前ってことにはならんのか?
その方が、よほど『弱者』から脱却できるよ。


『障害』・・・状態を表してるだけの言葉に、差別という付加価値?をつけたのは、人だ。
他方で、同じ人でもその付加価値を認めてない人にとっては、障害は当たり前に障害。
別にそれで困りはせんし、嫌な感情も持ちはせんよ。












まだ歩けないだけで体が自由に動かせた頃、ゆめはいつもにこやかでかわいらしかった。


ある日僕が鼻パックシートをつけてた時。
洗面所から出てきた僕の顔を見て

「パパチ」

と寝そべったままで呼び、自分の鼻に人差し指を、ちょんちょんとあてた。

『なんかついてるよ』

って感じか。



めちゃくちゃに、かわいかった。



筋ジスの、かわいいゆめ。
健常でも、当然かわいかっただろう。
でも筋ジスだから、病気の進行によって今苦しいさなかだし、おまけに早くに亡くなっちゃう。


僕からかわいいゆめを奪う、筋ジスという病気。
そのおかげでゆめがなににチャレンジできたとしても、僕はそれを絶対に許さない。
心から、憎む。
筋ジスであることやそのせいでいろいろと失うことを、当然差別感情を持って捉えはしない。だって筋ジスであるゆめがゆめのすべてなんだから。ゆめの何ものをも差別なんかしない。
それに、ゆめがそうであることで僕の見識が広がっていることは間違いない。
だからって、筋ジスで良かっただなんて絶対思わない。
ただ、筋ジスという病気それ自体を憎む。
















とな、そんな風に考えてるようでは、まだまだ浅はかなんだろう。
人生いくつになっても修行だね。



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この記事へのコメント
私もゆめパパの意見と同じです!

なんで、そんなに「障害者」って言葉にこだわるんでしょうね。

それに私も、チャレンジされているのは私や旦那のほうだ!って、娘が癇癪起こす度に思います。

呼び方なんて何でもいいから、どんどん学
校や助成機関を充実して欲しいです。
Posted by ゆ at 2012年04月21日 18:54
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