ゆめパパ

2014年02月01日 09:22

ご縁あって、病気で亡くなられた娘さんの闘病記を書いた、そのお母さんのブログを知った。
そこに載せられている娘さんの写真の姿は、とても笑顔がかわいらしくて、元気で、車いすで・・・
まるっきり、ついこの間までのゆめの姿そのもの、ゆめの姿を投影しろといわれているかのよう。

そして、見るのが辛い。
僕の脳内で、ここ数年はわずかな時間に凝縮されてしまっている。
脳が、勝手にそういう風にしてしまってる気がする。そうしないと、耐えられないだろうとでもいうかのように。
だから、車いすに乗ってたのなんて、ほんの昨日までのことのように思われる。
元気に車いす生活していた頃。
記憶の中では、それがあっという間に、寝たきりになってしまった。
事態は、あっという間に進む。
脳の気遣いは逆に、僕の不安もあおる。
まだまだ元気のあるゆめの、いずれ来る未来を想像させられる。
胸が締め付けられる。






愛する家族の誰かが命に関わる病に冒されていたら、その発見が手遅れだったとしたら、見つけられなかったことを激しく悔やむだろう。
なんでもっと早く気がついてあげられなかったんだって。

幸い・・・なのかどうか、ゆめもたったも、先天性。
見つけるも何もない。最初っからそうだから、彼女らの持ってる障害については、悔やむ必要は全くない。
ゆめに関していえば、溺水した時にもっと早く気がついてればっていうことはアルにはあるが、僕はバカだから、あれくらいのインパクトがなかったら、きっと呼吸がもうしにくくなってるゆめの呼吸器系に思いをはせられなくて、もっと長く苦しませながら、それでも人工呼吸器は付けさせたくないとか何とか、自分の我が儘を通して、もっと苦しめたかも知れないと、今は思う。


ただ、やはりママに関しては、自分を責めてしまった。
今は、かつてほど責めはしないけれど、でも心の中には、僕のせいだって思いが完全に消えずに残ってる。



医者には行ったが、風邪だっていわれた。
直後に妊娠したので、つわりだと思ってしまった。
家ではつわりと思える以外の症状が見られなかったので、亡くなってから聞いたママ友達の、つわりとは明らかに違うほどの症状が見られていた生前の様子に愕然とした。




すべては、後の祭り。

んでも、もう亡くなって2年以上がたち、こういうことを書くについても、以前ほどの葛藤や苦しみ、悲しみを伴いはしない。
むしろ、辛いのはゆめ。
既に手の届かないところへ行ってしまったママの、あの時の悲しみよりも、いずれ迎えるゆめのそれの方が、わかっていることで心の準備をしてるつもりなのに、遙かに辛い。

生まれてからずっと準備してるようなモノ(実際は、意識してないけど)なのに、それでも考えれば考えるほど辛い。
それが、これまで死なんてものが想像のらち外だったのに、いきなり目の前に現れたら、想像を絶する。



ここのところ、発達障害を持つ生徒が増え、その対処に苦労している。
障害がない生徒も、生きられてることをろくに意識しないで、無駄に使ってるとしか思えない生活をしてる様子にうんざりしている。お前らそんな無駄な生き方するなら、その命をゆめによこせって、いささかバカにする気持ちもあった。

死はいずれ来るし、誰にでも、それが明日来る可能性だってある。
そこにいたって、傲慢に過ぎた自分を、かなり諫める気持ちになった。
今回のご縁が何かと問われれば、自分の気持ちをリセットするためだったと思う。



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